日本における飴(あめ)の歴史は、古代にまでさかのぼるといわれています。飴は、遠い昔から日本人に親しまれた甘味料といわれ、「琥珀色の米あめ」が主流であったのではないかと考えられます。
今回のブログでは飴の起源やその変遷をたどりながら、「一子相伝で伝統製法を守ってきた飴屋さん」について、世界の多くの皆さんにお伝えしたいと思っています。
日本に伝存する最古の正史である日本書紀によると、日本の初代天皇である神武天皇が水あめを創ったとされています。古代の人々にとって甘いものは貴重であり、その水あめを皆で分かち合うことができたならば、争いなく天下が治まることを悟っていたのかもしれません。
原料は水、米、麦だけ
米あめをつくるためには、清冽な水、表作で栽培されたもち米と裏作の大麦が必要とされますが、これはお酒やビール造りに似ているような気がします。麦芽に含まれる酵素がもち米のでんぷんを分解していき、きれいな琥珀色をした甘い液体に変えていくのです。優しくまろやかな甘みの米あめには、オリゴ糖、ミネラル類、各種アミノ酸など滋養豊富でもあるため、単なる甘味料以上の貴重な存在だったことでしょう。
江戸時代にお菓子としての飴が広まった
日本で飴がお菓子として庶民まで届くようになったのは江戸時代に入ってからとされています。サトウキビからつくられた黒糖の流通が始まり、お菓子としての飴のバリエーションも一気に増えたそうです。江戸の浅草寺では「千歳飴」が発売されました。七五三のお祝いでは親が我が子の健やかな成長と長寿を願って「千歳飴」を楽しんだとされています。「千歳飴」の細く長い形状は長寿を表し、縁起が良いとされる紅白に色付けされているわけです。
200年の伝統を引き継ぐ小笠原商店
佐賀県南西部にある鹿島市に、1822年の創業以来、一子相伝で伝統製法を守ってきた「小笠原商店」があります。昔から神社仏閣の御用達だったという老舗ですが、マクロビオティック食品大手のオーサワも長年にわたり信頼を寄せるなど、今でも多くの方々に親しまれています。多良岳山系の清冽な鹿島の水を使い、伝統の鉄釜で丁寧に濾しながら、穏やかで深みのある甘みを有する、透き通った黄金色の米あめを仕上げています。
雑味も濁りもない「小笠原商店」の米あめは、甘味料または調味料として様々な料理やスイーツに使うことが出来ます。今後は「小笠原商店」と協力して、ヨーロッパなどで新たな出会いを求めていく計画をしています。商品の輸出だけではなく、この伝統技術の海外展開ができたならばもっと面白いことになるでしょう。